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親_母編 (2014)


2014年7月1日。集団的自衛権の行使容認が閣議決定されたのを受けて企画された時の「反戦」展(土屋誠一企画)への出品作。1934年、1935年生まれの両親の子供時代の日常を聞き書きした。


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母:

ええとね。お父さんが死んだ日、昭和17年というのは1942年、4月18日、朝。お父さんが死んだのね。その晩、初めて東京に空襲があったの。その半年前に真珠湾攻撃があって太平洋戦争がはじまったのだけれど、半年も経つとアメリカの空襲があったの。

1942年の4月18日夜、お通夜になるわけよね、で、二階にいて不安で不安で。警戒警報があったの。だからよく覚えているの。お兄さん二人と私、てっちゃんはいなかったね、子ども達は二階で、何しろ真っ暗なの。空をみながら。サーチライト、そのころは探照燈といってね、あっちこっちから夜空を右から左、左から右に空を巡ってたの。夜、二階にいて下からコソコソコソコソ音が聞こえたの。弔問客がくるのよ。そして暗い中から「帝都に空襲がありましたね」って聞こえるの。お父さんは結核だったのね。子どもながらにこれから家はどうなるんだろうと心配だったの。お兄さんは旧制中学の2年生、タモツ兄さんは小学校五年生、あたしは1年生。で、うちはその時にその他に病人がいたの。一番上のお兄さんが病人だったの。その人も末期を迎えていたの。次の年の二月に亡くなったの。要するに我が家は結核で死ぬ人が多かったの。ちっとも国のお役にはたたない家だったの。丈夫な子はいなくって。

家中の金物を出すという国のほら、指輪だとか金属のものは全部だすことになったの。うちは母屋から離れにいく廊下には鉄格子みたいないっぱい金属の柵があったの。二階も。全部そういうのが無くなったの。真鍮の火鉢も。何しろ金けのものがなくなったの。

お父さんも亡くなりお兄さんも亡くなると、お母さんのお姉さんーおばさんが、私達を信州に旅行に連れてってくれたの。お父さんとお兄さんの分骨した遺骨を善光寺に届けに行ったの。それから信州、志賀高原から渋温泉とひと夏かけて回って来たの、それはおばさんの優しさだったのね。おばさんの甥、姪、てっちゃん(弟)、私を連れて信州を旅行したの。で、帰ってお母さんの気分が落ち着いた頃、東京から疎開の人たちが来たのよ。いろんな人達がうちの蔵に荷物を入れさせてくれって来たの。家の離れに疎開の人が来たの。糧秣廠 ( りょうまつしょう ) 陸軍大尉の一家が来たの。それで、私はそこの家のあきらちゃんとよく遊んであげたの。五歳くらいだったかな。東京の子だからね。かわいいんだよ。その子とてっちゃんを相手に学校ごっこしてたの。きれいな奥さんでね。奥さんはあたし達が遊んでいるのを見ながらいつも笑っていたの。そういう小学校の日々だったのだけど、食べ物はなくなるってことで配給になっていたから、家の庭で配給のものをならべて近所の人が集まるの。門を大きくあけてね。みんなで分けっこするの。サツマイモであったり。サツマイモばっかり記憶にあるけどなんでも分けっこしたの。そうしたらその疎開にきた奥さんがみんなに羊羹を切ってくれるのよ、もう羊羹というのはこの何年か見たことがない。それが楽しみで近所の人がみんな参加した。薄く薄く切った羊羹で…。

だんだん空襲も増えてきたの。防空壕掘っていろんなものを入れた。従兄弟たちもみんな戦場にかり出されていったの。で、学校は疎開の子が多くなって。お弁当は持っていってたけど、中にはお弁当をもって来ない子もいてね。そういう子は家に帰ったふりして窓の下にいるの。あちこちに親戚を預かる家が周りに増えてきているから、その子たちのお弁当をつくるのも大変なわけよ。そのうちに、私が4年生になった時だ、ピカドンが落ちたんだよ。まず広島に。そうじゃない、その前にお隣のうちの息子が軍隊から脱走したの。脱走して、憲兵がお隣と私の母さんのところに貼り付いて情報を聞き出そうとするのよね。家から出るとその憲兵がお隣に入っていくのを見たの。私気になって、その前を通り過ぎて、ちょっと戸があいていたからのぞいてみたの。そしたら憲兵がこっちを見て戸をびしっと閉めたのね。憲兵っておっかない、お隣のお兄さんは逃げたんだなって思ったよ。 すごく心配だった。でも戦後、お隣のお兄さんは生きていることがわかったの。それはね、そのお兄さんが結婚をするらしくて興信所がいろいろ私の家に聴きにきたから。良かったなと思った。

私のお兄さんは大学生になって工学部に入って毎日都内の強制疎開した家の後片付けに行っていたの。兵隊にとられなかったの。タモツ兄さんは旧制中学で中島飛行場に学徒動員されてたの。一年生でだよまったく。14、15歳。お姉さんは結婚しないでいた。 お姉さんは徴用にとられたら大変っていってね、 お母さんの考えで農事試験場に勤めたの。私、そのお姉さんがえらいなって思ったのは、お母さんの片腕になるわけよ。お母さんは外に出て食料の調達してお姉さんは熟した柿からお酢を作ってくれたの。それと、工夫して鋳掛け屋に設計図を持って行って天火を作ってもらったの。それでいろんなものを焼いてくれたの。食べられない粉なんかをどうにかして。で、お姉さんも年頃だったんだけど、お母さんがどういう考えだったんだかなあ、この戦争はダメって思ったんだかなんだかしらないけど、縁談があってもみんな断っちゃうの。来る写真来る写真、みんな軍属の格好してるの。そういうお見合い写真が来るのよ、逆に、よその親は早く結婚させだがる。男がいなくなるからって。お母さんは夫を亡くして自分が惨めな思いをしたから。なにしろ未亡人にしたくなかったんだね。兵隊に行けない人はみんな弱い人だったんだよ。そういう人だっていずれ死なれるからね。だからそれ以外の男の人は身体が弱かったのよ。それだっていずれ兵隊にとられたけどね。それとね。クラスはぎゅうぎゅう詰め。疎開してきた子で、その中でおもしろい子がいた。「青木さん(私)の家って沢山本があるけど「愛染かつら」ってある?」って。うちには「愛染かつら」っていう本は無いって言った。奇麗な子だった。私の唯一の楽しみはね、二階にあった押し入れの中にまた押し入れがあって、夜具戸棚を厳重に閉めてレコードを聴くこと、兄弟の中で私まで許されていたの。内緒で。それはお兄さんのお陰なのね。それはね、従兄弟達がおいていったレコードだったの。みんなこれはよそに言ってはいけないよって言われたの。それを聴けるのはお姉さんとふたりのお兄さんと私だけ。真っ暗な中で蓄音機を回して聴くのよ。ジャズもあったよ。いとこは慶応だからね。ははは。可笑しかったよ。クラシックもあったし。ああ。それで、その頃お兄さんのお友達で芸大に行ってた人がいたの。その人の話しだと、覚えているのはね、学徒動員でとられる時、芸大ではベートベンの「英雄」を演奏して聴かせてくれたんだって。あたしすごく記憶にのこっている。

お腹は空くやら栄養失調になるやらで私はおできだらけになっちゃったの。男の子は頭の中にもおできができて。私は脚とか腿とか。お腹にはできなかった。いつも包帯だらけ。栄養失調で。それでね。広島に新型爆弾が落ちたっていう話しがあったんだよ。新型爆弾を防ぐには白(黒?)い服を着てれば助かるって聞いた。すごい閃光で。

敗戦間際の頃には、着の身着のままで寝てたの。戸も開けっ放しで寝てたの。二階だからね。ある日ぱーって明るくなったのよ、焼夷弾がどこかに落ちたのかもしれないけど、そのとき、これが新型爆弾かと思った。なんで神風が広島に吹かなかったのかっていうことが不思議だったの。間もなくして8月14日の夜、熊谷空襲があって本当に大変だった。それから3月の東京大空襲の時はうちからも東京のそらが真っ赤に見えた。

あとひとつ、B29からアメリカ兵が落下傘で遠くに降りたのを見た。かわいそうだなって思った。日本人は殺すだろうなって思った。お母さんに「戦争は負けるね」っていったらお母さんに陰につれていかれて「言うんじゃないよ。そういうことを言うと大変なことになるよ」って言われた。物はない何はないだから、子供でも不思議だよね。8月13日の夜から次の14日の朝まで、熊谷空襲があったの。一晩中、防火用水の所に立って熊谷の方を見ていた。二人の兄は大屋根に上がって火の粉を振り払っていたの。

8月15日、玉音放送があるからラジオの前に集まるようにっていう触れが回ったのよ。みんななんだろうって思って。もう寝てないんだから一晩中。ラジオの前に丁度お昼になったら玉音放送というのが始まって。初めて天皇陛下の声を聴いたの。これが神様の声かなって思ってびっくりしたよね。で、意味が分かんないの私には。ただ周りの大人が泣くから負けたんだなあっていうのが分かったんだよね。で、外に出たらすっごくね空が真っ青でね。気持ちもね。頭の上にいつも何か乗っかってたの。それがぱーっととれたの。不思議だったね。嬉しくってね。みんなはなんで泣くんだろうっと思ったの。ああよかったーって。やっぱり神風は吹かなかったんだと思ったよ。それは小学校4年生だもんね。で、二、三日後かな、私はスタスタスタスタ小学校へ行ったのよ。小学校には奉安殿があって、奉安殿には教育勅語とそれから天皇・皇后陛下の写真がしまってあったの。で、なにか式があると、校長先生が白い手袋をして教育勅語をもって、寒くっても講堂にみんな並んでそれをきくのね。で、ちょっとでも動くと先生が飛んできてビンタくれるのl男の子にビンタくれるの。もう恐ろしくて恐ろしくて。

女の子も?

女の子には怒るくらい。女の子がビンタもらったってのは聞かなかったね。お母さんがもらわなかっただけかな。で、その奉安殿に行って、ちょっと木陰があるのよね。そこでみんながもう遊んでいるのよ。今までは朝、奉安殿の前で礼をして、それで教室に向かってたの。帰る時も礼をして家に帰ってたの。その奉安殿で、その日はみんなが遊んでたの。後ろに木陰があるからそこでみんなが遊んでいるのよね。ちょっとそこにいて、それから自分の教室に行ったの。夏休みだったけどね。そしたら宮崎先生っていう私の大好きな女の先生がいたの。ちょっとおしゃれでね。私のことを解ってくれてうちの事情も解ってくれて。その先生がいたの。私、なんて言ったか分からないんだけど、先生からチョークをもらったの。ほんとうに何書いたか分からないんだけどいつの間にか黒板が真っ白になっちゃったの。で、また先生のところにいって、で、先生がまたチョークをくれたの。貴重なチョークだったと思うよ。それでみんなの机の上に、本当に何書いたか記憶にないんだけれど、机をチョークで真っ白にしたの。夢中にかいてたのね。そうしたら、何時間位たったんかな、後ろの扉がガラッと開いたのよね。そしたら数少ない学校に残っている若い男の先生が、頭ぐりぐり坊主の、野村先生っていうんだけど、立ってたの。私は殴られるなって瞬間思ったの。で、宮崎先生もヒュッて立ったの。私もびっくりしてそっち向いてたのね。長い時間のような気がしたけど、野村先生は静かに戸をしめて出て行ったの。それからよく覚えてないけど。宮崎先生と二人で消したんだと思う。ぞうきんで。それからまた黙ってスタスタスタスタ歩いて家に帰ってきたの。そしたらお母さんとお姉さんがぼんやりとね、あの10畳の広い部屋でさ、ふたりがぼんやりと膝の上に毛糸のカセをのっけているのね、毛糸の一巻きを昔は100g200g50gっていうのではなく、ひとかせ何オンスとかいって、でもそれカーキ色なの、軍隊色なの。ただ貴重な純毛なの。それをふたりが膝のうえにのせてぼんやりしてたの。そしたらお母さんがね、「あのね、あきらちゃんは自動車で帰ったってよ」って教えてくれたの。びっくりしたんだけど。近所の人から後できいたけど、あきらちゃん達は軍用トラックで出て行ったって話してくれたの。なんだろうと思って近所の人がのぞいたんだろうね。あの門のところまで軍用トラックが入ってきたのかな?そしたらね、お砂糖やら粉やらね。なにやら食料品良品がいっぱい入ってたんだって。あきらちゃんとその妹のよしこちゃん、奥さんと陸軍大尉が、その沢山の食料品を積み込んだ自動車に一緒に乗って帰ったんだって。若い兵隊さんが運転してきて、荷物を詰め込んで帰ったんだって。もう寂しいとかじゃなくってねえ。後で知ったけど、川崎で製菓工場を作ったんだって。

それからの生活も大変だった。ますます食べ物がなくなった。母が食糧難に備えて、どんぐりの粉をいっぱい買ってたの。で、そのドングリの粉はどうしてたべるのかっていうと、アクをとるのよね、お水につけてで、アクをとって下に沈殿したのをすくってお団子にして食べたの。まあそういうものがあったけれど、あんまりおいしくないのよね、お砂糖があるわけでもないしお塩もないし。まあみんな栄養失調。でもね、民主主義って本当の民主主義ってね。2、3年だと思う。お母さん。小学校は楽しかったの。先生がいろんなことをやらせてくれたの。先生の前に向いて座るっていう方式ではなくてグループ学習だったの。あ、その前にね、先生がね、教科書を持って来いって言うのよ。それで、教科書に間違っていた部分があるから消すからっていうんで、こう、墨塗りを始めるの。でもお母さんはそれ、やらなかった。全部塗ったの。そしたらお母さんの一冊の本はうんと厚くなって開かなくなっちゃったの。でもね、それを学校で使ったっていう記憶はないよ。もうほんとにね、毎日自由な研究発表。このグループで決めたことを、男の子も女の子も一緒になって自由に決めたことを町へ行っていろんな話しをきいてきて持ってかえってそこで話し合いをして代表が前に出て発表するっている方式になった。それから話し合いの議長は選挙で決めたの。

小学校5年生くらいに演劇が流行ったの。歌をうたう人もいたし、各クラスで演劇大会をしたの。私は家にある本の中から小山内薫の「北風のくれたテーブルかけ」っていうのを選んだの。私が演出したの。この脚本を選んだのは自分でもセンスがいいなって思ったの。で、宿屋の亭主の役の人が、だいぶ長いセリフが通しででてくるから嫌だっていうの。 その人は男の役が第一に嫌だったんだろうね。 仕方がないから後半を私がやったの。宿屋の亭主を。後半から役が代わったから、見てる人が分かんなくなったんじゃないかなって、残念だなって。今でも思うの。どうして頑張んなかったのかなって。でね、演出も凝ったの。先生の教卓に炎を描いて暖炉にして工夫をしたの。ただその日嬉しかったことがあったの。私のはいているズボンの膝が痛んでいたのだけど、その朝、お母さんが新しいズボンを縫って枕元に置いてくれてたの。それが嬉しかった。

でもね、そういうのってね。2年くらい。後ははまた右傾化していったと思う。中学のときはもう朝鮮戦争が始まったからね。で、日本はもうその頃からまたね、馬鹿な道を歩いていたんだと思う。反省ってのがないんだから。悪い人がいっぱいいたんだよね。で、その頃でしょ、あの配給のものだけで生きるっていうんで死んだ検事さんがいたよね。飢え死にしちゃったよね。でもヤミのものを食べないとね。行きて行けなかったの。何しろ家の庭にあった松の木の傍まで、お母さんがスイカ植えたりトマト植えたりぜーんぶ畑にしちゃったの。でもみんな病気がちだったね。弱い家だからね。そういうこと。うん。やだね。

お父さんは遺言状を書いたのよ。その遺言状っていうのは自分のお葬式の段取りと案内状まで書いちゃったんだから。葬式の日付だけは無いの。それで非常時に併せての葬式のやり方と、それから私達子どものことをお母さんに頼んだわけ。どの子も平等に学問をさせるようにっていうこと。そういうことだね。それから株なんてやってはいけないとか。それはお父さんが銀行家だったから沢山みてるわけよ。株やってダメになっていく人たちを。ね。でもお父さんは大政翼賛会の会員なのよ。戦争賛成のクチなのよ。そうしないとやっていけないんだからね。自分が死んでも充分この子達の一生は賄えるという計算のもとなんだよね。残されたお母さんは大変じゃない。農地解放があって全部とられちゃったんだから。

私のお母さんは、食べていけないので自分の家を寮にしたの。門を入って左側のうち。あれを農地試験場の寮にしたの。で、うちにねえやがいたろ?お母さんとねえやでまかないをしたの。

姉や(ねえや)っていうのは何なの?雇用してたわけでしょ?

そうよ。

お金がないのになんで雇用できたの?

だからお父さんさんのお金はあるよ。その頃は。

でも人を使うってお金がかかるでしょう?

それはみんな小作人の娘なの。で、うちからお嫁に行ったの。で、お母さんが一番ね、心配したのはその子とお姉さんが結核になったらどうしよう、感染したらどうしよう、特によその子に感染させたらどうしようっていうことだったの。でもね女の人はならなかったんだよね。

強いのかね。

強いし、傍にも寄せなかった。で、私が小さいときにはね。白い服を着た人が家中にいっぱいちょろちょろしてたの。それは看護婦さんだったの。そんで、庭の隅に大きい釜が置いてあっていつもそこで火を燃して煮沸消毒してたの。真ん中のお兄さんは私が4歳の時に結核で死んじゃったの。その人がもうひとつの家に住んでいたんだけど時々療養所に入れたりするわけよ。あと親戚がお医者さんだからね。お母さんはお父さんが亡くなったあとね、お兄さんも亡くなって学校に行っても子どものくせに不眠症になったり、教室の壁や天井のシミをみても凄く怖いものに見て勉強どころではなかったの。おっかなくって。おとうさんは大丈夫かな、お閻魔さまの前でちゃんと通れたかな、そんなつまんないことから始まって、あたしはいつそういうふうになるんかなあっていうんで病気になちゃったのよね。で、夜中に走るようになっちゃったの。 どういうことをするかっていうとね。 ムクッと起きると台所に行くんだって。台所は家の真ん中にある。で、そこの水杓がある。それをもってあの廊下をね。コの字曲がったりして一番表に出ていってシャーって撒くんだって。またトットットットッッって戻って行くの。なんかワアワアワアいいながらお勝手にいってまた表まで出て行ってシャーッって水を撒く。それを何回か繰り返すと布団にはいってコロって寝ちゃうんだって。 で、全然覚えがない、私は何ひとつもやったって今も覚えてないけど。お兄さん達に冷やかされたの。 従兄弟がお医者さんだったのね。お母さんが心配してきいたの。従兄弟っていってもお父さんが末っ子だったからうんと上なのよ。私はおじさんかと思ってたけど。その従兄弟が分院をもってたの。曜日が決まっててそっちに行くから帰りに寄りますよって。あたしが起きる時に見計らって家に来てくれたの。そしたら、私の様子をみて、大丈夫ですよって。この子は神経質で頭のいい子かもしれないって。そこは外れたんだけどさ。そういう恐怖だよね。そうしたらお母さんがその日からお父さんの前で般若心経をあげようって、お父さんが見守ってくれるからって。お母さんと一緒に般若心経をあげようって言うんでね。小学校1、2年生でね。毎晩お経をあげたの。そしたら治まったの。心が落ち着くんだね。お父さんが見守ってくれるっていう。だって優しいお父さんだったよ。康子に言ったでしょ、寝る時、足が冷たいとお父さんが来て足を握っててくれるのよ。お父さんは「かわくて、にくくて、ほねくて」っていいながら足を握っててくれたの。でも私が泣くとお父さんの神経が苛立ってね。寝間着のまま飛び起きてきて庭で振り回してね。その先、蔵にいれるの。でもあたしはね、懲りなかったの。そんなの。うわーって言いだしたら、南彦(孫)じゃないけど、凄かったの。

でも、いろんな事情をお母さんが私に話せばいいのよ。たとえば、一番上のお兄さんが病院に入っているっていうことを。お母さんが病院に会いに行くわけよ。お父さんは行けないから。お母さんが着物を着替えだすわけよ。出かける為に。いい匂いがしてきてね。ああお母さんでかけるんだなって思うとそこにまつわりついて。あたいも行く、あたいも行くって言い出すの。

「うるさかったんだね。」

そうするとねえやの千代がね、騙すわけよ。お母さんが出かける時に。だからもうね。そういうことをされまいとしてずっと貼りついてんの。私も一緒に行く行くって。だからね。私はそんなにばかじゃないと思うんだよ。お母さんは実は昇兄さんが病院にいるんでこうだよっていうことをね。話してきかせればいいのに、しなかったんだよね。そうするとね、帰りね。まだその頃アイスクリームを売っているっていうのは珍しいんだけど熊谷の駅だからアイスクリームがあったの。このくらいの四角で。経木にはいっているの。お母さんが、私やてっちゃんに食べさせたくてそのアイスクリームを買ってくるのよ。そうすると、アイスクリームの周りの何個かを犠牲にするわけ、アイスクリームの上と下を。真ん中だけを食べさせたいんだね。お母さんが帰ってくる頃はお母さんが行ったのも忘れて私たちはあちこちで走り回っているのだけど、ねえやが「ほらひさこちゃん、てっちゃん、たもつちゃん」ってみんな呼んで・お母さんが出してくれるアイスクリームを食べるの。それが楽しみだった。だから帰りアイスクリーム買ってくるから待ってなって言えばいいのに。なんで言わなかったんかなーっって思って。

「そうだね。でも判んないだろうっておもわれてたんだね。」

うん。このグズな娘は言ったら聞かないんじゃないかなって、うちの旦那には言ったっていうけど。私、そうでもないと思うよ。話せば、うん、分かったっていうと思うよ。そういう癖をつけなかったんね。ダメな子はダメって思ってたんじゃない。

お母さん辛かったと思うよ。結婚生活は短かったと思うよ。息子達が次から次へ亡くなって。で、やっと大きくして大学入ったら結核になって。だからね、あの、銀行っていうのはね結核の巣なんだよ。昔はね。風通しが悪くてさ。今みたいにお金なんて見ないでインターネットでお金の勘定なんてできないじゃない。その、大きいお金なんか。だからお母さん子供達をひとりも銀行員にしなかった。なるんじゃないよあんなもんって。お母さんが可哀想だったね。でもね、お母さんだけじゃなくてうちの親戚みんな結核だらけ。軟弱なんだね。でも、あの、ほらお父さんがいるときは楽しかったよ。お父さんに東京連れてってもらっておいしいものを食べさせてもらって。いいもの買ってもらって。それとね、横浜に親戚があったからそこからねお父さんが注文してくれるの。お洋服。特にお姉さんに。お姉さんが可愛くって。あたしと違って可愛い顔してたのよ。丸顔で。かわいくってね。お父さんの自慢だったの。で、熊谷の女学校をでてから山脇女学園を終えてフランス料理を習いに行ってたの。だからお姉さんは天火なんか知ってるの。それをお父さんが楽しみにしてたの。お姉さんのつくるお料理を。普通その頃ハンバーグなんて知らないじゃない。横浜からお洋服がくるとね。お父さんのネクタイやらお姉さんのお洋服が届くのよ。それから呉服屋さんが家に来るの。お姉さんやお母さんの着物を買うのに。お父さんはセンスがいいの。お父さんは病気で離れで寝ているの。そうすると呉服屋さんが大きい向こう側の中庭を間において、うつらないようにして遠くのほうにいて、反物をどんどん広げるわけよ。そうするとお母さんが廊下に出てきて、お父さんに反物をこう広げてみせるの。「それだめだ」。で、また次をみせるの。愛子(姉)の着物…、絞りの…、で、そういうふうに買うの。で、呉服屋さんはまた紺色の風呂敷を背負って帰って行くの。番頭が来るのよね。そういうふうにして昔はね、行って買うんじゃなくて来てもらって買う。特にお父さんがそうなってからはそうなったの。あたしも欲しいあたしも欲しいって言ったら、買ったよ買ったよって言われて。で、ちっとも買ってないのよ。要するに、これ買ったこれ買ったってのは、羽織の裏とかそんなもんなんだよ。可笑しいね。いろんなことがあってね。にぎやかな家でした。活気があったんだけどね。でも、お父さんが病気になっちゃって。お兄さん達が亡くなって。お父さんの頼みの息子達も病気になって。だからお父さんのね。計算は狂ったんだよ。おそらく真珠湾攻撃の時には万歳って言ってたのかもしれないけど。

あと、紀元2600年っていうお祭りがあったのを覚えている。あれ何年だろう。そんでその時はお父さんに肩車してもらって。提灯をもって首に赤い手ぬぐいをまいて、町を行進したの。お父さん元気だったんだなあ。

あの頃は電車に乗る人ってあんまりいないのよ。通勤するサラリーマンっていないんだから。ほとんど商店主とか。サラリーマンってのは数少ないんだから。お姉さんが女学校に行っている時、電車で降りて家に向かっている時、駅に行く男の人がすっすっすっすっといると、ああ、これはうちの系統の顔だなって分かるんだって。みんな面長でさ。ああ、この人うちに来たなって。急いで家にかえるとね、お客様の居た気配があってさ。まだ、いいおざぶとんがあって。今のはなんとかさんだよって。お父さんの話しを聞くと面白いよ。自分の姪にさ、姉さんの子ども達にどうしても修道院はいるっていうのが出て大変だったんだって。(2014年9月22日)



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最終更新時刻2019 年 06 月 07 日,04:20 PM