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親_父編 (2014)

2014年7月1日。集団的自衛権の行使容認が閣議決定されたのを受けて企画された時の「反戦」展(土屋誠一企画)への出品作。1934年、1935年生まれの両親の子供時代の日常を聞き書きした。

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父: 私が小学校に入った年は小学校が国民学校と名前が変わった年なの。昭和16年は学制改革があって小学校が国民学校となって児童は少国民として教育を受けることになった。その国民学校の一年生の二学期の終り、12月8日に当時大東亜戦争と呼ばれたアジア・太平洋戦争が始まった。気の小さい私は日本はどうなってしまうのだろうと心配したけど、大本営発表を聴くと、初戦から日本海軍の真珠湾攻撃が成功して日本有利だと子ども心にも思えたんだけれども、私はその頃、少国民を含めて国民に戦意高揚させるための戦争映画を相生座という映画館に観にいったんだよね。その時、最初にみた映画が「英国崩るるの道」っていう映画で、日本軍がシンガポールを陥落させたんだけど、その映画に出てくるイギリスの市民が父親に似ていて、日本軍の狙撃で路上で倒れるシーンがあって、父親の姿とオーバーラップしてしまって強いショックを受けてしまい戦争は嫌だと思った。

当時の少国民は、大日本青少国民団っていったかな、子供も戦争に協力させる組織に組み込まれていた。毎日、 男の子は 兵士として戦うため、女の子は野戦病院の看護師として活躍するための訓練が行われたけれど、それが嫌でいやでしょうがなかった。真冬でも上半身裸で乾布摩擦をしてから町を走って一周する。男の子は木刀で、女の子は長刀(なぎなた)で戦うための力を培った。そういう日々が続いていた。その毎日が嫌で嫌でしょうがなかった。

小学校の先生は「女の子は戦地の野戦病院で怪我をした兵隊さんのために頑張るのよ、男の子は戦地に行ってお国の為に戦わなくちゃならないのよ。お国の為に頑張るのよ。贅沢は敵なのよ」とね。特に国民学校3年生の時の女の担任のK先生からよく言われた。大本営発表を聴いて、日本は戦争に勝ち続けているんだなって思ったんだけど、先生も「日本は神の国だから負けそうになっても神風が吹く」って言い続けていた。その先生がある日「昨日新聞で読んだんだけれど、召集令状を受け取った青年が出征するのが嫌で庭で木の枝に首をかけて自分の命を絶った。そういう人になっては駄目。進んで戦わなければいけません。」と言った言葉を今でも覚えている。

4、5年生になって空襲が始まった。田舎のこの小さい町でもロッキードの戦闘機で女の人がひとり狙撃されて命を失ったことからだんだんと日本は負けるのではないかと思うようになった。

そういう時期に若い臨時のA先生が来た。5年生の時の担任が出張の時にそのA先生が代わりに授業をしてくれた。「アメリカは今、大統領が死にそうになっている。トルーマンという副大統領が大統領になるかもしれない。そのアメリカはイタリアとドイツを除くヨーロッパの国々と共産主義のソ連も入った連合軍として戦っているんだけれども、ソ連以外殆どの国が資本主義だ。国の仕組みが違うんでこれから連合軍は分裂する可能性がある。日本がこれから負けていくことになると、アメリカ軍が上陸するかもしれない。日本人は体力がない、お前達も小さいし先生も小さい。しかもアメリカ軍は優秀な新兵器も持っている。ひとたまりもなく竹槍などで戦ってもやっつけられてしまう。」と話した。戦争協力の末端組織の「隣組」 は今の町内会だけど、私が住んでいた稲荷町の「隣組」 では、アメリカが上陸した時に子供も協力させるために、竹槍の先端を油の中にジュっと入れて刃を強くして板に突き刺す訓練をやっていた。その訓練をやりながらその先生の話しを思い出していた。その先生はある日いなくなった。学校の先生には召集令状は来ないといわれていた。銃後の少国民を育てる役割があったからだけど、なぜかその先生のところには召集令状が送られて南方に派遣された。間もなく戦死したと知った。

戦争末期の5年生の時、沖縄戦になった。沖縄の地図を描いて毎日沖縄のどこで戦っているのか、那覇は、首里はどうかと先生から聴きながら克明に地図の上に戦況を書く係になった。その作業をしながら日本はだめだなと子ども心に強く思った。

そういう時、お隣のふくろ屋さんのおじさんが「ひろちゃん、もうじき日本は降伏するよ」と教えてくれた。それから、家のラジオの故障をいつも直してくれていた人がいたんだけど、そのそのおじさんが、短波受信機を使って短波放送を聴いて「確実に日本は負ける」って教えてくれた。8月15日の前に日本が確実に負けると教えてられ、怖くて怖くて夜も寝られない状態になっていた。

短波放送で「日本は負ける」と知っていたおじさんは特攻警察と憲兵に連れられて牢獄に入れられてしまった。またショックを受けて怯えながらやがて夏休みにはいって空襲が激化するだけでなく広島に「特殊爆弾」が落とされてソ連が日本に攻め込んでくるという情報をラジオや新聞で知った。確実に日本は負けると思った。2発目の「特殊爆弾」が長崎に落ちてますますその思いが強くなった。

8月14日から15日にかけて、熊谷大空襲があった。家の裏庭の防空壕に入っていたけど、爆弾の炸裂が激しくなって、大地が揺れて防空壕が崩れてきた。父だけは家に残ることになり、私と母とおばあさんと弟と妹と一緒に小川町の南の青山の農家の竹やぶに行った。布団にくるまって一晩明かした。

明けて、8月15日になって天皇のへんな声の玉音放送があった。日本は戦争に負けたということが子ども心にわかった。いつも行く馬橋の下の水浴びをするところに行こうと思って歩いていくと、その途中の家のおじさんおばさん達がオイオイ泣いていたり、怒鳴っていたり、黙っていたり、普段とまったく様子が違った。なんで泣いたりするんだろう。

率直に戦争が終わって良かったと思った。竹槍で戦う必要もない、空襲もない、負けた国になるけど竹槍で米兵と戦うこともなくなるし、火炎放射器で殺されることもない、ああよかった!と思った。

2、3日後、学校から全員登校しなさいと連絡が入った。全生徒を校庭に集めて森村校長が「みなさん、8月15日に日本はアメリカと仲良くなりました。日本は戦争に負けたのではありません。アメリカと仲良くすることになったのです。」と言った。

2学期が始まったらそれまで使っていた5年生の教科書のいくつもの文章を墨汁で消す作業をした。1〜2週間続いた。「このページは糊で貼付けて見えないようにしなさい」という指示もあった。一冊の教科書のいろんなところが読めなくなった。

「日本は神の国、負けそうになったら神風が吹く。女の子は野戦病院に、男の子は予科練に入ってお国に命を捧げるように」と言っていた女のK先生は詫びることもなかった。「あれは嘘だった」とも言わなかった、突然民主主義を語り始め、ひとりひとりが大切だと言い始めた。

自分より歳が上で、アメリカと戦わなければならないと言っていた人、そして先生達、これらの人の話しを絶対に信じるまいと思った。すべてを疑おうと思った。特に学校の先生は大嘘つきだ。それまで毎日掲げていた日の丸は進駐軍の命令で掲げられなくなった。学校も含めて、どこでも日の丸を掲げることはできなくなった。先生達は命令通りにした。そしてやがて組合をつくり赤旗を振り、インターナショナルの歌を歌うようになった。そういう先生達がサンフランシスコ平和条約を結んだら急に赤旗を振るのを止めて組合から抜け出した。以後、そういうことに関しても先生に不信感をもつことになった。

とにかく、敗戦を通して私は大人達を信じることができなくなった。復員した隣のおじさんが「日本は負けたけど、また戦争をしなければだめだ」と言っているのを聞いた。そのおじさんも信じられなくなった。

6年生になって、進駐軍の兵士が小川町に来た。町の子にチューインガムとチョコレートをくれながら優しくしてくれた。鬼畜米英といってたけど米兵は優しいんだな、殺されることはないなと分かった。戦時中は禁止されていた野球が流行り始めていた。

学制改革があって、どの町村でもだれでも行ける中学校ができることになった。県立松山中学に行くために受験勉強をしていたけれど、しなくてもよいことになりその分野球に夢中になっていった。

そういう時に進駐軍の兵士がグランドに来て野球の基礎を丁寧に教えてくれた。英語だからわからなかったけど、ボディーランゲージで教えてくれた。余計に野球が好きになった。大きくなってアメリカに行って野球をしたいと思った。

プロ野球も復活した。川上哲治(当時は巨人軍の1塁手)が小川町にきて野球の話しをしてくれてますます好きになった。戦中、むりやり軍国少年にされた男の子達は野球少年になってアメリカに行ってみたいと思うようになった。

とにかく自分より年上の大人達、戦争に反対しなかった父親を含めて、上の世代を恨んだ。戦争を境に生き方が変った。

新制中学が出来た時「新しい憲法のはなし」という本が出た。「日本は新しい憲法ができました。国民が主人公になります。いろんな国の平和を愛する人たちを信じ、日本は戦争を放棄する」と学んだ。小銃などの兵器が大きな釜に入れられて廃棄される挿絵がとても印象に残っている。主権者は国民で戦争をしないことを学んだ。いい国になったと思った。国民一人一人に基本的人権があるという憲法の話しを、もと海軍の水兵だったT先生が教えてくれた。二度と戦争はすまいと語ってくれた。1年生が終わったらその先生はいなくなった。先生のお兄さんがポプラ社の社長で、そこにに努めることになったときいた。

その先生_平和憲法を教えてくれたT先生は音楽や絵や演劇が好きで、学芸会でシェイクスピアの「ベニスの商人」をやることになった。私はシャイロックをやれといわれた。セリフの数が多いけど、全部暗記した。小川会館で演じて喝采を浴びた。ポーシャ役の女の子は後に山本安英(やまもとやすえ)の主宰する劇団の女優になったよ。いろいろな生徒にそういう影響を与えた。

平和を愛し、いい授業をしてくれた反省しているT先生と、戦争に行って死んでしまったA先生は信じることができた。

新制の高等学校でも野球ばかりやっていた。その頃、朝鮮戦争が始まった。世の中、また変ると思ったけど、担任のB先生と出会えた。ホームルームの時間にいろんなことをやった。ホームルームニュースを出してくれた。そして公害反対闘争の田中正造を知った。そういうことを含めて多くを教わった。運動会では「ノーモアヒロシマ」という仮装行列をした。運動会の為に先生が「2年3組頑張れ」という曲を作曲してくれて他の組から羨ましがられた。ドイツリート(ドイツ歌曲)も教えてくれた。

上の世代を憎んだけれども、本当のことを教えてくれて戦死したA先生、平和憲法を教えてくれたもと海軍水兵だった新制中学のT先生、元陸軍の兵士だった松山高等学校のB先生、その三人は信じられる先生だと思った。「お国の為に死ぬのだ」と言った小学校のK先生は今でも恨んでいる。

不条理なことに加担して生きるととんでもないことになる。どんな中でも条理に沿った生き方をしていると後で悔いを残さない。

1945年の8月15日以前と以降、変ったんだよ私は。私の一年年下になると、ずいぶんと意識は違うらしいよ。 上の世代を恨むことはなかったって。 (2014年9月22日)



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